1970〜'80年代
1973年式野外軍装を着用した
自動車化射撃兵



 1969年に行われ、'70年に施行されたソ連軍の大規模な服装規定の改定により、ソ連軍兵士の姿は大きく変化した。
 '69年の大改訂につづき、'73年に、それよりも小規模ながら軍装システムの改定がまとめられた。これは'69年の大規模で野心的な変更から4年を経て、現実に即して修正すべき点を整理したと言え、以後、ソ連崩壊までの基本的な軍装規定となっていく。

 ここに作例で示した1973年式野外軍装を着用した自動車化射撃兵の姿は、'70〜'80年代の完全武装したソ連陸軍兵士の標準的姿である。

 やがて、アフガニスタン等での実戦経験から、多くの問題点が噴出し、それが新型軍服や、1988年の服装規定の改定へと繋がるのだが、その実施の道半ばでソ連軍は解体される。

(写真と文章/赤いお母さん)


・軍装解説



1973年式野外軍装


 野外軍装は、服装区分である「野外服」の上に、所定の装具を身に着ける事で構成される。
 1973年式の野外軍装は、1969年式を基本とし、幾つかの修正点を加えている。

 1973年規定における、野外軍装に関する最大の変更点は、基本的に背嚢を背負う事を止めた事である。
 1969年規定までは、行軍装備として「完全装備」と「簡易装備」の二つの区分が存在した。
 「完全装備」では、食料や食器に洗面具、着用していない被服類を詰め、或いは結び付けた背嚢を背負う事になっていた。
 「簡易装備」では、背嚢を背負わず、これら背嚢と荷物を、兵員輸送車両の中に残して置く事に成っていた。
 1973年規定以降は、区分を廃し、上記の「簡易装備」が標準の行軍装備となった。これは恐らく、ソ連軍の機械化(自動車化)が進んだ事によるのだろう。



1973年式夏季野外服



 「野外服」は、野外での教練・演習・戦闘当直の際に着用する服装区分で、夏季はピロートカ・閉襟キーチェリ・乗馬型ズボン・長靴・腰ベルトからなる。



 ・ピロートカ(пилотка)

 ピロートカは戦前から用いられた舟形略帽である。
 1969年規定では「野外服/作業服」の被り物として、1973年規定からは「常勤服/野外服/作業服」の被り物となった。
 鉄兜着用の際には、ライナーとしてピロートカを被る事になっていた。この作例では、鉄帽の下に隠れている。


 ・1969年型徴集兵用木綿製閉襟キーチェリ(Закрытый китель)

 この上衣を、徴集兵は隊内外での授業や任務、自由時間に着用する「常勤服」として、屋外の訓練や戦闘任務に着用する「野外服」として用いた。いわば、彼らにとっての日常着である。

 特筆すべきは、この1969年型の導入により、帝政ロシア以来、兵士の日常着として実に100年以上に渡って用いられたルバーハ(рубаха)、後にギムナスチョールカ(гимнастёрка)と呼ばれるプルトップ型の上衣が廃止され、キーチェリと呼ばれる前開きの上衣が導入された事である。
 キーチェリは金メッキされた制服ボタン5つのシングルで、襟元を閉めるフックが付いていた。袖のカフスは金メッキされた小さな制服ボタン2つで留めた。両前見頃の下裾にタレブタ付きスリットポケットが付いている(作例ではポーチに隠れて見えない)。襟の内側に白い襟布を縫い付けて着用する。

 襟章:
 襟には服と共生地の襟章が縫い付けられており、平時には、兵科色(自動車化射撃兵は赤)の色付き襟章が上から縫い付けられ、金メッキされた兵科章が打ち込まれている。
 有事に際しては、この色付き襟章をはがし、下の共生地襟章に、保護色が塗装された兵科章を打ち込む事になっていた。

 肩章:
 肩には服と共生地の襟章が縫い付けられており、平時には、兵科色の色付き肩章が縫い付けられ、肩章には階級に応じて、黄色いリボンの階級章が縫い付けられた(作例は兵卒なので、このリボンが無い)。
 1973年規定から、色付き肩章に25mmの大きさのソ連軍(Советская Армия)の頭文字「СА」が、金色(実際には黄色)のプラスティックでプリントされる事になった。この「СА」の文字と肩章の端の距離は2.5cmであったが、1988年規定では2cmに変化する。
 有事に際しては、この色付き肩章をはがし、下の共生地肩章に、赤いリボンの階級章が縫い付けられる事になっていた。

 兵科色の色付き襟章と肩章は、綿フランネル製であったが、後にウール製に変化する。
 1988年規定からは、野外軍装として着用する際は、平時・有事問わずに、共生地の襟章に保護色の兵科章、共生地の肩章に赤いリボンの階級章を用いる事になった。

(襟章・肩章に関する解説は次の作例記事も参照。「'70年代砲兵部隊の兵卒」

 キーチェリの胸には「野外服」であろうとも、勲章やメダルの略綬、バッヂを身に着けた。取り付け位置は、第二ボタンの高さとされた。
 この作例では、右胸に親衛部隊所属の証である親衛隊章(гвардия)を佩用している。
 この野外服でも胸に徽章類を佩用する規定は、さすがに1988年規定では廃止されていた。


 ・1969年型徴集兵用木綿製乗馬型ズボン(Брюки в сапоги

 このズボンを、徴集兵は「常勤服/野外服」の下衣として用いた。
 ズボンは長靴に裾をたくし込む形で、裾にボタン留めの踏み紐が付いている。膝には五角形の当て布が縫い付けてある。前あきはボタンダウンで、左右の腰にはサイズ調整用のベルトが付いている。左右の腰にスリットポケットがある。


 補項:生地

 徴集兵用のピロートカ、閉襟キーチェリ、乗馬型ズボンの生地には、木綿製と寒冷時用のウール混紡製とがあった。夏季用として、また冬季でも野外服には、木綿製が用いられる事が多かった様だ。
 木綿製には「3303」と呼ばれる木綿生地(実際には5%のポリエステルが入っていた様だ)が用いられる事となっていた。
 この生地はソ連軽工業省はソ連閣僚会議国家計画委員会(いわゆるゴスプラン)との共同での線維改良の中で開発され、1970〜'72年の間に既存生地からの移行が決められた。
 しかしながら、紡績から布織までの生産ラインを新規に立ち上げつつ、膨大なソ連軍への供給を維持するのは不可能で、既存の設備を用いて製産出来る生地が過渡期の製品として生産された。これが「3217」と呼ばれる木綿とポリエステルの混紡生地(35%:65%)である。これが意外に良好で、予定を超過して製産が続けられた。また、ギムナスチョールカといった旧型軍服に用いられた既存の木綿生地も、過渡期的に用いられた。
 因みに、作例は「3303」生地を再現した。


 ・腰ベルト

 徴集兵用の野外ベルトを着用する。詳しくは後述。


 ・長靴

 徴集兵用の長靴で、胴の部分はキルザ(кирза)と呼ばれる疑似皮革で出来ている。


1980年代頃の陸軍親衛隊章


 「1969年型徴集兵用夏季常勤・野外服」の作例
1980年代初頭 国境警備兵伍長
1980年代初頭 自動車部隊の運転手



 1973式兵下士官用野外(野戦)装備一式


 自動車化射撃兵を初めとする兵下士官の野外(野戦)用装備システムに関しては、(恐らくAK-47の導入に関連して)1950年代には既に基本型が完成していた様だ。
 1973年式は、'73年の服装規定をまとめた「規定本」('74年出版)に図版及び文章の形で掲載された方式である。
 基本形はそのままに、以前の形式の問題点や実験的要素を廃しており、以降のソ連軍の標準的な射撃兵(歩兵)の行軍装備となる。

 服装規定には、自動車化射撃兵の兵下士官用野外(野戦)装備のリストの中に、「腰ベルト」「サスペンダー」「グレネードポーチ」「水筒(のカバー)」「小円匙(のカバー)」「各種マガジンポーチ」「背嚢」「防護長靴下と手袋のセット(のカバー)」が含まれていた。これを基準に、他の兵種であれば使用する兵器によって変更が加えられた(例えば、サスペンダーを用いない・・・等)。
 上記リストには無いが、「防水マント兼一人用テント(ポンチョ)」「ガスマスクポーチ」「鉄兜」「個人用火器」「銃剣」などが携帯された。逆に小円匙は邪魔なので車内に残していたり、防護ストッキングと手袋のセットを携帯している姿は殆ど見られなかったりする。

 また携帯品では無いが、食料や食器、日常品や医薬品類も行軍装備には含まれていた。
 これら食料や備品類、使わない時の鉄兜・外套・ポンチョなどは、背嚢に収めるか、結束ベルトで括り付けるかして、兵員輸送車の中に置いた。例外は防護用長靴下と手袋のセットで、1973年規定の改訂で、これは決して背嚢の中に収めてはならなかった(以前は収納する事に成っていた)。



 ・1960年型鉄兜(сш-60)

 1960年に導入された鉄兜は、1939年型・1940年型と同型の外殻を用いた物である。顎紐は、革製の二点留式ベルトで、金属のバックルと皮の遊管が付いている。
 前の二つ型との大きな違いは内張で、防寒帽(шапка-ушанка)の上から被る際に収まりが良くなる様に改良され、この内張の形状は1968年型鉄兜(сш-68)に受け継がれる。
 同じ外殻を用いる1939年型、1940年型そして1960年型の外観上の大きな違いは、その内張形状が違う事によるリベットの位置である。左図のオレンジの矢印で示した部分にリベットがあるのが、1960年型の特徴である。
(сш-40戦後改修品の作例も参照の事)
 この後、1968年型が導入され、順次更新が行われていった。


 ・1969年型野外用腰ベルト
 ・1973年型サスペンダー

 このタイプのサスペンダーと腰ベルトのセットは、管見では、既に1956年規定で姿を見る事が出来る。

 サスペンダーと腰ベルトは、木綿製平紐に、茶色い樹脂を塗って人工皮革風に仕上げている。
 サスペンダーの末端はループ状になっており、そこに腰ベルトを通す事で組み合わされる。
 サスペンダーの肩当てに付いたループ(左図の緑の矢印)は、真鍮ギボシ状ボタンで開閉出来る様に成っている。背嚢を背負う際には、ここに負い紐を通して背嚢をサスペンダーに固定する。

 1969年以降、このサスペンダーと野外用腰ベルトに変更が行われた。
 先ず、つや消し仕上げで無塗装の金属だったサスペンダーのサイズ調整用バックルと、腰ベルトのバックルと留具が、保護色の塗装仕上げになった。
 また、ベルトに塗布された樹脂の色も、暗い煉瓦色から焦茶色へと、赤味が薄くなった。
 より大きな違いは、サスペンダーの左前と後のベルト通しに付けられていたDリングが廃止された事であろう。このDリングには、フックを用いてガスマスクポーチを吊す事が想定されていた。しかしながら、このタイプのポーチが用いられている姿や、現物資料を目にした事は無く、大きな謎である。

 また、1969年規定に際して、サスペンダーにポンチョを装着する事を廃し、結束ベルトで腰ベルトに留める事が規定された。
 更には、背嚢の負い紐を廃し、フック付きベルトをサスペンダーのDリングに引っかけて背負う、全く新しい形式の背嚢とサスペンダーが計画された。
 現物資料や写真資料から、実際に試作品が作られ、少数ながら製産された可能性を知る事が出来るが、1973年規定では、これら野心的な案は姿を消した。

 なお、サスペンダーと野外用腰ベルトは、'50年代の古い仕様の製品が1970年中頃まで製造されていた事実が確認されている。
 理由は不明だが、新しい仕様に対応する生産ラインの準備が間に合わなかったのかも知れない。

 ・AK用マガジンポーチ
 ・グレネードポーチ
 ・水筒
 ・小円匙

 マガジンポーチは、7.62×39mm弾30発入りのAK用弾倉3本と、クリーニングキット、オイラーが収納出来る。
 当初はオイラー用のポケットが無く、別に人工皮革製ケースが装具リストに加わっていたが、1973年規定から無くなっている。恐らく、同時期にデザインが変わったと思われる。

 グレネードポーチは内部に間仕切りがあり、手榴弾を2つ収納出来る。

 水筒は大戦前からほぼ変わらぬデザインの物。
 水筒はアルミ製で、無塗装の製品と保護色に塗られた製品とが存在するが、特に製造年代による差異では無い様だ。

 小円匙は、最近ではМПЛ-50と呼ばれている様で、キリル文字3文字は、歩兵用小円匙(Малая пехотная лопата)の頭文字。-50は長さ(cm)を表す。
 大戦前から様々な形の物があるが、作例の小円匙とカバーは戦後一般的な物。本体の刃は五角形。ケースは下方に開口しており、内側にあるバックル付きベルトで小円匙の柄を結束し、吊す様に携帯する。大戦中に導入された型の様だが、詳しい事は知らない。
 なお1988年規定本に至るまで野外装具の図版には、大戦後ほとんど目にしない古い円匙ケースが描かれ続ける。その意図は謎である。

 マガジンポーチ・グレネードポーチ・円匙ケースの裏側にはループが縫い付けられており、ここに腰ベルトを通して身に着ける。水筒ケースはボタン留めのベルトが、水筒をケースに固定する役目とベルト通しを兼ねている。
 ポーチやケースには、ニスを塗ったベニヤ製の名札が縫い付けられ、ここに持ち主の階級や名前を書き込んだ。


 ・防水マント兼一人用テント(ポンチョ)

 これも大戦前と変わらぬデザインのポンチョである。
 個人用の雨具としても、簡易シェルターとしても使える物。
 四隅の鳩目が革製リングで補強されていたが、後に金属製の鳩目に変わった。
 携帯する際は四つに折り畳み、丸めて、縫い付けられたベルト通しに、サスペンダーの背中にあるループ部分のベルトを通し、バックルで締めて括り付ける。


 ・ガスマスクポーチ(1967年型Aタイプ)

 1967年型Aタイプと呼ばれる物。
 他に1967年の仕様としては、Гタイプの存在は確認されるが(作例)、БタイプやВタイプの存在は確認されていない。

 肩から掛けるシンプルな物で、体により密着する様にサイズ調整が出来る細い平紐が脇に縫い付けられている。これを腰に廻し、反対側側面のDリングに、フックで留める様に作られている。
 ただ、このベルトは使い勝手が悪いらしく、切ってしまうか、ポーチの中に押し込んでしまい、実際には利用していない事が圧倒的に多い。この作例でも、ポーチの中にしまい込んでいる。


 ・AKM
 ・銃剣

 ・防護長靴下と手袋のセット

 これらは大量破壊兵器の汚染から身を守る為に用いる物で、指揮官の命令でケースに入れて携帯した。
 実際に携帯している姿を見た事が無いのだが、もし携帯する際には、腰ベルトの右後ろ、小円匙ケースの内側に吊す事に成っていた。
 作例では、再現していない。


 ・認識票

 認識票は、普段、まとめて部隊で保管し、戦闘動員時に兵士に一枚づつ配布され、適当な紐などで首から提げられた。
 形状は楕円形の金属版。表面に二段組みで認識番号等が彫り込まれていた。幾つかのバリエーションが存在する。
 作例では再現していない。


 ・衛生パッケージ(санитарный пакет)

 1973年規定では記述が消えてしまうが、1969年規定では、キーチェリの左ポケットに衛生パッケージを携帯する事になっていた。
 この衛生パッケージの内容に付いては分からないが、応急医療セットや浄水剤の様な物だったのでは無いだろうか。
 他の事例からかんがみて、認識票と同様に、戦闘動員の際に改めて配給されたのではないだろうか。
 


・模型的解説


 模型的解説については、Blog「別当日誌」の記事を参照して下さい。

 ANT-miniatures 「Soviet Army soldier 1960-80th.」(7) 塗装
 ANT-miniatures 「Soviet Army soldier 1960-80th.」(6) AKMとスリング
 ANT-miniatures 「Soviet Army soldier 1960-80th.」(5) 靴底
 ANT-miniatures 「Soviet Army soldier 1960-80th.」(4) 円匙と水筒
 ANT-miniatures 「Soviet Army soldier 1960-80th.」(3) 鉄兜
 ANT-miniatures 「Soviet Army soldier 1960-80th.」(2)
 ANT-miniatures 「Soviet Army soldier 1960-80th.」



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