[第3章:徽章着用の現実]

[第1節:規定上の現実]

 前章の編年的整理の結果、1935年から1943年までの労農赤軍の軍服は、あくまでも規定のうえであるが、襟章の違いによって大まかに
  「1935年12月以降」
  「1936年3月以降」
  「1940年7月以降」
  「1941年1月以降」
  「1941年8月以降」

の5つに分類することが可能である。また、鉄道部隊や主計(兵站)、政治委員など兵科・勤務によっては別種の分類が必要となる。

 5つに分類できるといっても、「何年何月〜何年何月」というように明確な時期区分ができるわけではない。例えば、「1936年3月以降」の場合、 1941年6月の独ソ戦開戦後の混乱においては、予備役から動員された軍人が規定的に古い「1936年3月以降の軍装」をしていることもあったことを考え てほしい。(注33)ま た、「1941年8月以降」のカーキ色の徽章類は、あくまでも野戦軍と補充部隊がその対象であり、カーキ色である必要のない軍人には当てはまらない、すな わち、戦闘に参加する可能性の低い部署にある軍人は、規定上においても「1941年1月以降」に基づく徽章類が付けられていたことにも注意したい。という わけで、時期区分を「〜以降」として使用時期の上限を提示しているのである。

 この編年的整理と分類作業により明確となった注目すべき兵科・勤務についての論点を、これまで誤解が多かった3点に絞って以下に提示したい。

・歩兵について

 歩兵科の軍人は、1935年時点で兵科徽章が存在しなかったし、1936年3月10日付の指令でも兵科徽章が制定されなかったので、「1935年 12月以降」〜「1940年7月以降」の時期区分においては襟章に何も付けていなかった。しかし、1940年11月2日付で「エナメル仕上げの標的と交差 した2挺の歩兵銃」の歩兵(射撃兵)の徽章が制定され、1941年1月1日から着用することが義務付けられたので、「1941年1月以降」は襟章に兵科徽 章を付けることになった。肩章を復活させた1943年1月15日付のソ連邦国防人民委員部指令第25号によって、この兵科徽章が国境警備隊と国内軍の歩兵 のみに限定された結果、労農赤軍の歩兵科の軍人の兵科徽章は再び消滅することになった。(注34)

・騎兵について

 騎兵科の軍人は、1935年時点で兵科徽章が存在しなかったし、1936年3月10日付の指令でも兵科徽章が制定されなかったので、「1935年 12月以降」〜「1940年7月以降」の時期区分においては襟章に何も付けていなかった。しかし、1940年11月2日付で「蹄鉄と交差した2振のサーベ ル」の騎兵の徽章が制定され、1941年1月1日から着用することが義務付けられたので、「1941年1月以降」は襟章に兵科徽章を付けることになった。

・政治委員

 政治委員は、1935年12月3日付で襟章に兵科徽章を付けないことが決められていた。しかし、1940年7月26日付で自分が所属する部隊の兵科徽章を付けることになった。



[第2節:着用上の現実]

 写真を調べていると、規定に則っていない事例が数多く見られる。このことは、規定が本当に機能していたかどうかに疑念を抱かせるような思考を惹起させる。以下に、ほんの一例にすぎないが、写真を例に着用上の現実を見てみよう。

[例1:戦車兵の場合]

 1939年9月のポーランド侵攻の時期では、規定上、第25戦車軍団長の師団指揮官[комдив]М.П.ペトローフの肖像写真のように黒色の ビロードの地に金色リボンの縁どりの襟章に2つのダイヤ形階級章と「ベーテー戦車形」の兵科徽章を付けているべきだが、従軍中のリャーボフ大佐や第29戦 車旅団長の旅団指揮官[комбриг]С.М.クリヴォシェーインや第6戦車旅団長のボロートニコフ大佐は兵科徽章を付けていない。ところが、同時期の 上級中尉は、兵科徽章をきちんと付けている。(注35)

[例2:航空兵の場合]

 1939年の第18回党大会の時期に、航空師団指揮官И.И.プロスクーロフは、空色の地に金リボンの縁どりの襟章に2つのダイヤ形階級章をつけ ているが、兵科徽章は付けていない。しかし、一緒に写っている航空大佐プロコーフィエフは、空色の地に金リボンの縁どりの襟章に3つの長方形階級章と航空 兵の兵科徽章を付けている。(注36)

[例3:歩兵(射撃兵)の場合]

 1941年までの歩兵科の軍人は、兵科徽章を付けていないが、1941年夏の射撃兵中尉は、規定通りにキイチゴ色の地に金リボンの縁どりの襟章に2つの正方形と歩兵(射撃兵)の兵科徽章を付けている。(注37)1942年のカフカース戦線での射撃兵大佐В.А.ヴルーツキイは、カーキ色の襟章に4つの赤色エナメル仕上げの長方形階級章とエナメル仕上げの兵科徽章を付けている。(注38)また、同時期の軍人の中には規定通りにカーキ色の襟章にカーキ色の階級章のみを付けて、兵科徽章を付けていない例が多く(注39)、 カーキ色の歩兵(射撃兵)科の兵科徽章を付けている写真は非常に少ない。驚いたことに1943年5月の段階でも襟章が付けられていることがある。功績に よって赤旗勲章とスヴォーロフ3級(吊り下げ式、この授与第1号は1943年2月8日のЗ.Н.グラーニン少佐なので、写真撮影は確実に1943年2月以 降となる(注40))を授与された大隊長の歩兵少佐Н.ピスクンは、キイチゴ色の地に金リボンの縁どりの襟章に2つのエナメル仕上げの長方形階級章を付けているが兵科徽章は付けていない。(注41)これは肩章制定後に歩兵用の兵科徽章が廃止されたことによるのか、彼が独ソ戦勃発後に動員された軍人であるため、単に1940年までの規定に即しているのか、どちらなのだろうか。

[例4:騎兵の場合]

 1942年1月のバルヴィエーンコヴォ(ハリコーフの南方)での第5騎兵軍団長の少将А.А.グレチコーは兵科徽章を付けているか定かではない (概して将官は兵科徽章を付けていることは稀である)が、一緒に写っている軍団参謀長の騎兵大佐И.М.アフォーニンも規定通りに兵科徽章を付けている。(注42)

[例5:将官の野戦服の場合]

 戦車少将М.カトゥーコフは、兵士の外套用カーキ色襟章に化学鉛筆で星を2つ描いて少将の階級章としている。(注43)

[例6:政治委員の場合]

 政治委員は、1939年のポーランド侵攻時の第6戦車旅団の連隊政治委員Н.В.シャターロフのように1940年7月26日までは兵科徽章を付けなかった。(注44)しかし、それ以降は、軍輸送部隊・鉄道部隊の上級政治指導員Г.И.イヴァーノフ(注45)や1942年の新年に撮られた集合写真(注46)のように兵科徽章を付けることになっていた。ところが、現実は規定通りにはいかないようである。1942年に撮られた連隊政治委員В.Ф.バラーキンは、カーキ色の地の襟章に赤エナメル仕上げの4つの長方形のみであるし(注47) 、1942年夏に撮られた上級大隊政治委員И.И.グリツィエーンコも兵科徽章を付けていない。(注48)



[第3節:混乱か遵守か]

 兵科徽章の有無が独ソ戦勃発後の混乱を原因とするのであれば、それほど大きな問題ではない。戦争の最初の1ヵ月に、動員計画に基づいて大量の予備 役軍人を現役に復帰させたことを考えれば、野戦軍でも、後方支援部隊でも、公式には廃止された古い軍装から最新式の軍装にいたるさまざまな軍装の混在をも たらしたことは想像に難くないからである。また、1941年8月の指令は、カーキ色の襟章や徽章類を出現させたが、これも部分的にしか実施されなかったこ とは想像に難くない。というのは、すでに縫い込まれているパイピングを外すことは尋常なことではないし、部隊のための新しい徽章類を確保することも困難で あったからである。それゆえ、カーキ色の襟章に赤エナメル塗りの階級章や真鍮製の兵科徽章、政治委員の袖やカーキ色の軍帽に赤星が付けられることも多かっ た。(注49)また、К.К.ロコソーフスキイの部隊のように、敢えて明確に識別できる色鮮やかな襟章を付けていた事例もあった。(注50)

 しかし、1940年以前に、歩兵や騎兵以外の兵科に属する軍人が兵科徽章を付けていない事例はどう判断すればよいのだろうか。また、政治委員の場合、戦争中の写真の圧倒的多数が兵科徽章なしであるのはなぜだろうか。

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