[第2章:襟章に付けられた
 兵科・勤務を示す徽章を中心とした規定の変化の編年的整理]

[第1節:兵科・勤務、階級を示すシステム]

 襟章[петлица]を用いて兵科・勤務と階級を示すシステムは、1924年6月20日付で出現し、その後、1943年1月15日付で肩章を用 いるシステムにとって変わった。その間、襟章による識別という基本的システムには大きな変更はなかったが、制度上の変化などにより若干の補足的な改定を加 えられた。すなわち、職務の在り方、階級の種類と階級を示す徽章[знак]の数と形と色、兵科・勤務章としての徽章[эмблема]の形と色、パイピ ングや襟章本体の色などに変更が加えられたり、襟の階級章を補完するものとして袖の階級章も現われた。

 当時の労農赤軍軍人の所属は、襟章の色、軍帽の色、軍服のパイピングの色、「ブジョーノフカ(冬用兜型帽)」のラシャ製の星の色などの兵科・勤務色と、襟章に付けられた兵科・勤務章としての徽章によって識別された。



[第2節:兵科・勤務章としての襟章]

 1935年12月3日付のソ連邦国防人民委員部指令第176号によって、新しい襟章のシステムが制定された。注17)こ れによれば、襟章は上衣用と外套用の2つに大別され、「ギムナスチョールカ」や「フレンチ」などの上衣用は、幅32.5mm×長さ約100mm(3辺の縁 どりを含む)の平行四辺形であり、一方、外套用は、縦110(ソ連邦元帥のみ135)mm×横90mmのダイヤ形であった。指揮官たる幹部要員の襟章には 幅4mmの金糸リボンか金モールの縁どりが付けられ、後方勤務の幹部要員や政治委員は、兵下士官と同様に兵科色に応じたラシャ製の縁どりがなされていた。

 襟章の地と縁どりの色の組合せは以下の通りである。

 ・歩兵にはキイチゴ色の地に黒色の縁どりの襟章が制定された。歩兵の兵科色は総合兵科的な意味合いをもつと考えられる。1等軍団政治委員、軍アカデミーの学生と教官はこの色の襟章を用いたからである。

 ・騎兵には青色の地に黒色の縁どりの襟章が制定された。
 ・砲兵には黒色の地に赤色の縁どりの襟章が制定された。
 ・自動車兵・戦車兵には黒色の地に赤色の縁どりの襟章が制定された。戦車兵の幹部要員の黒色の地はビロード製とされた。
 ・技術関係には黒色の地に青色の縁どりの襟章が制定された。しかし、鉄道部隊の襟章は、1936年8月31日付で幹部要員用は黒色のビロード製の地に指揮要員は金色の縁どり、管理要員は空色の縁どりとなり、また、兵下士官は黒色のラシャ製の地に空色の縁どりとなった。(注18)
 ・化学兵には黒色の地に黒色の縁どりの襟章が制定された。
 ・航空兵には空色の地に黒色の縁どりの襟章が制定された。
 ・後方勤務などには暗緑色の地に赤色の縁どりの襟章が制定された。

 また、1940年11月2日付のソ連邦国防人民委員部指令第391号によって下士官用襟章に変化がおこった。これによって下士官用の襟章の地の中 央部に赤色リボン(平行四辺形の襟章は幅5mm、ダイヤ形の襟章用幅10mm)と上部の角に真鍮製の三角形が付けられることになった。また、スタルシナー (最上級下士官)の襟章には幅3mmの金糸リボンが襟章の地と縁どりの間に付けられた。この襟章は1941年1月1日付で実施された。(注19)



[第3節:兵科・勤務章としての徽章]

 1936年3月10日付のソ連邦国防人民委員部指令第33号によって、新しい兵科や勤務を示すための徽章が制定された。これによって、これまでに 制定された徽章は廃止され、類似の形のものを除いて使用されなくなった。この新しい徽章は、主として真鍮でつくられており、用途に応じて金メッキか銀メッ キがなされていた。星がある場合は赤色のエナメル仕上げが星に施されていた。指令によれば、兵士の襟章の徽章は、ペンキでステンシルすることになっていた が、実際には、裏足式かネジ式の金属製のものが一般的であったようである。(注20)

 歩兵と騎兵の兵科徽章は1935年から1940年の間は存在しなかった。それどころか、第1モスクワ・プロレタリア射撃兵師団には襟章の部隊記号 さえ存在し、例えば、この師団に属する第1モスクワ砲兵連隊の兵士は、歩兵用のキイチゴ色の襟章に直線的な金属製の「1МАП」の頭文字と砲兵の兵科章を 付けていた。(注21)

 砲兵の徽章は伝統的な「交差した2門の大砲」、自動車兵の徽章は第一次世界大戦以来使われてきた「ハンドルと翼の付いた車輪」であり、一方、戦車兵の徽章は「ベーテー戦車の形象」であった。この戦車兵の徽章には左右の区別があった。

 技術関係の部隊には、技術、道路、通信などがあるが、工兵の徽章には「交差した2本の斧」と「交差したシャベルとツルハシ」の2種類があり、通信兵の徽章は「電光を放つ翼付きの星」(注22) 、架橋兵の徽章は「錨と交差した2本の斧」、電気技術部隊の徽章は「電光を放つ交差したシャベルと斧」であった。

 鉄道部隊の徽章は「交差した錨と斧」であったが、1936年8月31日付のソ連邦国防人民委員部指令第165号によって軍輸送部隊と鉄道部隊用に「交差した錨とモンキーレンチとハンマーに直線的な翼付きの星」制定された。(注23)

 化学兵の徽章は「ガスマスクと交差した2本のボンベ」であったが、1943年3月1日付のソ連邦国防人民委員部指令第115号によって「交差したモンキーレンチとハンマー」に変更された。(注24)

 航空兵の徽章は「翼の付いたプロペラ」であった。1930年代の写真では、しばしば1920年代末の航空兵の徽章が付けられている場合があり、それは翼が尖っており、またサイズが大きく、銀メッキが施されていた。(注25)

 法務や技術の専門職幹部要員は、所属している部隊の兵科に応じた襟章を付け、それに法務は「交差した2本の剣と盾」、技術は「交差したモンキーレンチとハンマー」が付けられた。

 主計(兵站)の徽章は「左半分が車輪、右半分が歯車の輪をバックにヘルメットとモンキーレンチとコンパス」のデザインであったが、1940年7月 13日付のソ連邦国防人民委員部指令第212号によって主計(兵站)勤務の将官用として「交差したハンマーと鎌に赤星」が制定され、さらに1942年3月 30日付ソ連邦国防人民委員部指令第93号によって幹部要員全体用となった。(注26)

 軍医・衛生兵の徽章は「金色の蛇の巻き付いた杯」、獣医の徽章は「銀色の蛇の巻き付いた杯」であった。また、軍楽隊長の徽章は「リラ(竪琴)の形象」であった。

 徽章着用上の注意点として、自動車兵・化学兵・通信兵・工兵・軍医・衛生兵・獣医に限り、自分の所属が連隊よりも下位区分にあたる場合、上位区分 の兵科色の襟章に自分の兵科の徽章を付けることもありえた。例えば、衛生兵の場合、歩兵部隊に所属する衛生兵は、歩兵用(キイチゴ色の地に黒の縁どり)の 襟章に衛生兵の兵科徽章を付け、医療部隊に所属する衛生兵は、後方勤務用(暗緑色の地に赤色の縁どり)の襟章に衛生兵の兵科徽章を付けることになっていた のである。(注27)

 政治委員は、所属する部隊の兵科に基づく襟章を付けた。但し、1等軍団政治委員だけは必ずキイチゴ色の地に黒色の縁どりをもつ襟章で、金色の刺繍による星と4つのダイヤ形の階級章が付けられた。そして1940年7月26日までは襟章に何も兵科徽章は付けられなかった。(注28)

 1940年7月に兵科・勤務を表わす徽章に関する再検討が行われ、1940年11月2日付ののソ連邦国防人民委員部指令第391号で下士官の階級 章が変更されると同時に歩兵(射撃兵)と騎兵の徽章が制定され、1941年1月1日から実際に使用されることになった。歩兵の徽章は「エナメル仕上げの標 的と交差した2挺の歩兵銃」であり、騎兵の徽章は1922年1月31日に制定されたものと同じデザイン、すなわち「蹄鉄と交差した2振のサーベル」であっ た。(注29)

 独ソ戦勃発後、1941年8月1日付のソ連邦国防人民委員部指令第253号によって野戦軍と補充部隊の双方に対して、保護色(カーキ色)の襟章と 階級章が制定され、また、袖章と服のパイピング、将官のランパッセン(ズボンの側線)が廃止されるなど、全軍的に戦時に対応した「視認性の低下」がはから れた。(注30)また、真鍮製で緑色のエナメル仕上げをした指揮官用階級章や、赤絹糸刺繍でで縁取りされ、金糸刺繍の「鎚鎌」をもつ緑ラシャ製の星章なども制定されたが、これらは滅多に存在しなかった。(注31)

 1942年に入ると3月に砲兵部隊や装甲部隊に所属する技術系の専門職幹部要員や主計(兵站)の専門職幹部要員の称号が一般軍人の呼称と一致する ようになり、9月には技術将校用として銀メッキされた「交差したモンキーレンチとハンマー」が制定された。さらに政治委員も10月9日付で廃止され、政治 将校となったため、政治委員固有の徽章類も消滅した。(注32)

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