[第1章:これまでの研究について]

 残念ながら、これまでに「襟章に付けられた兵科・勤務を示す徽章」について触れている研究を総合すると情報の混乱が存在することが明らかになる。最も古いと考えられる研究は、おそらく、レニングラートにあった「ソ連邦国防省砲兵総局付属砲兵歴史博物館[АИМ]」(注04)が1960年に出版した『赤軍およびソ連軍の軍装と階級章の図解付き記述(1918年-1958年)』であろう。(注05)こ のオレーク=ハリトーノフを中心にまとめられた研究は、出版当時は、労農赤軍の軍装の歴史を知るべき立場にあった人を除いて、ほとんど一般の目には触れる ことの出来ないものであったが、その内容は軍装規定の指令文書に基づくものであり、労農赤軍研究の基本文献と言えるような素晴しい刊行物である。ところ が、この本はその素晴しさとその稀少性ゆえに批判の対象とならず、最近まで内容に「記述の脱落や誤解」があるとは思われていなかった。その内容の問題点に ついては後述したい。この本は西側においてもやはり稀少なもので、一般の研究者の目に触れることは少なかったと思われるが、それにもかかわらず、その後に 現われた全ての研究に影響を与えており、1970年代になって、西側でこの本の内容の不完全な紹介が始まった。

 このテーマに触れた研究で、西側で一般の研究者によって書かれた最も古い書籍は、おそらくアルバート=シートンの『ソ連軍』であろうが、簡単なイラストと解説のみであり、徽章自体のシステムを紹介するものではなかった。(注06)また、アンドリュー=モロも『第二次世界大戦の陸軍の軍服』の参考文献リストの中でハリトーノフの本を挙げているだけでなく、軍服の種類に加えて階級章や兵科色を解説しているが、なぜか徽章の解説はない。(注07)本格的に徽章のシステムを紹介したのがグイード=ロシニョーリである。(注08) 彼は非常に緻密なカラーイラストを用いて、赤軍の階級システム全体や衣服へのその着用例を示した。この研究が後世に与えた影響は大きく、その中に含まれる 誤解も無批判的にアンドリュー=モロなど西側の研究者に引き継がれ、日本においては、残念なことであるが、現在でもその影響下にある。(注09)1940 年以降の下士官の襟章の中央部の線や1943年以降の下士官の野戦用肩章のリボンなどに誤解があるのだが、徽章についても1936年に「追加」という誤解 の原因を生みかねない記述があり、解説文でも徽章の変化と廃止についての記述があまりにも曖昧であり、「主計(兵站)」を「政治委員」の徽章と勘違いして いるのはやはり問題であろう。したがって、残念ながら、当時としては素晴しい研究であったが、現時点では信頼できない本になってしまっていると言わざるを えない。(注10)また、デルジュディーチェは、さらに徽章を詳細に説明しているが、ロシニョーリの影響は解消されていない。(注11)さらにスティーヴン=ザローガも徽章についてはおざなりな言及しかしていないし(注12)、アントーン=シャリートとイリヤー=サフチェンコーフといったロシア人コレクターとアンドリュー=モロの共著も徽章に細かく触れることはなかった。(注13)

 徽章について、新しい情報を流しはじめたのはフランスの「ミリタリアマガジン」誌上でのジェラール=ゴロコフの記事であり、彼は1940年に導入された「歩兵」の新型徽章を紹介した。(注14)さらにロバート=ステッドマンもこれと同様の見解を示した。(注15)そして、現時点で最も信頼に足る研究が、パーヴェル=リパートフのものであり、この研究は、これまで疑問を感じていた部分の大半を解消してくれた。(注16)次章では、ハリトーノフやリパートフの研究成果に基づいて「襟章に付けられた兵科・勤務を示す徽章」を中心に規定の変化の編年的整理をしてみよう。

《前ページ 次ページ》


このページはリンクフリーです。