長大な国境線を共有する中国とソ連の間には、国境が未確定といえる地域が革命以前より存在しており、アムール川支流のウスリー川に浮かぶ中州ダマンスキー島(中国名:珍宝島)も、その一つである。この清とロシアという2つの帝国間の遺産が、1960年代の中ソ対立の中で表面化する。1960年代後半には年間2000回前後、数千から2、3万人による、ソ連支配領域への侵入行動が繰り返されたという。この中国側からの船を用いた、あるいは徒歩による越境行動に対して、ソ連国境警備隊は放水や棒、刺又、己の体、時には実弾でもって、これを中国領内に押し返した。 より事態が緊迫感を帯びたのは1968年冬であり、50人から1500人の徒党を組んだ紅衛兵が、毛沢東語録を手に、反ソスローガンを叫びながら、国境を練り歩き、挑発行動を繰り返した。その緊張が頂点に達した1969年3月、中ソ両軍による軍事衝突がダマンスキー島で勃発し、やがてその火は中央アジアへと飛び火していく。 作例は中ソ国境紛争の火ぶたが今まさに切って落とされようとしていた1968年冬、ダマンスキー島を警備していた国境警備隊第57分遣隊の兵士である。 手にしているのは狩猟用刺又で、BTR-60に搭乗して国境侵犯の現場に駆けつけ、その特殊兵器でもって中国人を自国境域から追い出した。 なお制作に当たっては、『Даманский и Жаланашколь 1969』(著:Андрей Мусаров)に掲載された写真を参考にした。 |
(写真と文章/赤いお母さん) |
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寒冷地での冬季軍装 1968年当時の国境警備隊はKGBの指揮下にあるが、内務省指揮下の国内軍と同様に、その軍装は国防省指揮下の陸軍に準じている。 1941年8月国防人民委員部命令第283号によって、寒冷地での冬季軍装が制定された。 この軍装では防寒帽(шапка-ушанка)、手袋、羊毛皮の半外套(полушубок)、綿入乗馬ズボン(ватная шаровары)、フェルト製防寒長靴(валенки)を身につける事に成っていた。 細部の変更や、内側に着用する制服の変化はあれど、大祖国戦争以来の寒冷地での冬季軍装は、ソ連崩壊まで変わることなくソ連将兵によって着用され続け、1968年冬のダマンスキー島を警備する国境警備隊でも用いられていた。 |
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補図01 |
・1940年型鉄兜(сш-40)戦後改修品 ソ連が初めて独自開発した1936年型鉄兜(сш-36作例)に続き、いくつかの試行錯誤を経て、1939年に新型の鉄兜(сш-39)が制定される。翌年には、外殻を変えることなく、内張だけを改良した1940年型鉄兜(сш-40)が制定された。 сш-40は大祖国戦争中、大量に生産され、戦後も長く現役の座に在り続けた(未だに現役かも知れない)。戦後使用されたсш-40は、顎紐を改良した物に取り替えられた。具体的には、戦中は布ベルトであった顎紐を、戦後は革ベルトに替えている。その中には、新たに取り付け金具を追加し、Y型革ベルトの顎紐にする事により、二点留式から四点留式に改良した物もあり、広く使用例が見受けられる。 1960年に内張だけを改良した新型鉄兜(сш-60)が登場し、1968年に新型外殻の1968年型鉄兜(сш-68)が制定されるまで、約30年間に渡ってソ連将兵の鉄兜のシルエットは一定であった。 сш-39、сш-40、сш-60の外見上の違いは、顎紐の他に、内張を留めるリベットの位置が挙げられる。補図01で示した矢印は、сш-40の特徴を示している。 |
・防寒帽(шапка-ушанка) 人造毛皮製の兵下士官用防寒帽を再現。 先の283号命令に先立ち、冬戦争の後、1940年に制定されている。微細な改良が順次施されているが、ここでは触れない。 ・手袋 野外作業時の兵下士官用手袋を再現。 先の283号命令では、どうやら白色の手袋の様だが、1968年の時点で、どの様な手袋が用いられていたか不明瞭な為、1969年規定以降用いられている形の物を再現した。不鮮明な写真から推察するに、既に同型の物が用いられている様にも見える。 再現した物は三指型で、親指と手の内は背嚢(вещевой мешок)と同じ生地、手の甲はチョコレート色の綿フランネル生地で出来ている。内張は外套の生地が用いられている。 補図02参照。 ・羊毛皮の半外套(полушубок) 1931年12月に既に制定され、それ以来ほぼ変わる事無く、ソ連の軍人達の防寒着として着用されつづけている。 変更点としては、1940年に留具がフック式から、ボタンと共生地のループ式に変更された事と、肩章の導入に従って脱着式肩章の留具が追加された事が挙げられる。 概して大きめのサイズが貸与されるのか、外套の様に丈が長く、作例の様に腕まくりをして着用している例が多く見られる。また将校は肩章を着用しているが、兵下士官は、まず肩章を着用している事は無い。 ・綿入乗馬ズボン(ватная шаровары) 綿入防寒服(ватная телогрейка)と共に用いる様に導入されたが、外套や羊毛皮の半外套を着用する時は、綿入防寒服は用いなかった。ダマンスキー島事件の際には規定上に残っているが、1969年規定以後は着用規定上から消えた。 ・フェルト製防寒長靴(валенки) 長靴や短靴の代わりに用いる様に導入された。 地面の状況が悪い時に用いる為、ゴム製の脱着式ソールが用意された。 ・兵下士官用常勤ベルト 真鍮製バックルの付いた兵下士官用常勤ベルトを着用。 ・AK用マガジンポーチ AK47やAKMの7.62mm弾倉用マガジンポーチ。 フタにはベニヤ板にニスを塗った装具用名札が取り付けてある。 ・AKM 参考にした書籍の写真解説でも間違われていたが、これはAK47ではなくAKMである。 AKMの特徴的な斜めに切り欠いたマズルフラッシュではなく、マズルリングが装着されているので、AK47である様に思われがちだが、様々な特徴から写真に撮られたダマンスキー島の第57分遣隊員が用いていたのは、AKMである。 そもそもAKMのマズルフラッシュは途中から導入された物で、初期には装着されていなかった。またマズルリングと互換性はあるので、用途に応じて交換する例もあるという。 |
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補図02 |
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素体はミニ・アート社のキットを用い、タミヤ・エポキシパテで大まかに形を整えた後に、マジックスカルプとタミヤパテで細かな仕上げをしてあります。 装具類は、鉄兜はタミヤ社の物を、AKMはドラゴン社の物を、それぞれ改造して用いました。マガジンポーチはマジックスカルプで自作、その他のストラップやベルト類も、プラ材や伸ばしランナーで作っています。 刺又も自作。2mmのプラ棒をコンロで暖め、伸ばしたり曲げたりして形を整え、1mmのプラ棒などで枝を付け、最後にタミヤパテで樹皮を再現しました。実際に写真に写っている物は、もう少し長さがあるのですが、収納の問題で短めにしました。また実際はもっと表面の凹凸は無さそうですが、模型的見栄えで、枝を多めに付けてみました。 大変出来の良いミニ・アート社のキットを使って何か作りたいな・・・と思っていた所、上記の書籍を手に入れ、早速作り始めたのですが、お手軽モデリングのハズが、随分と手間をかけてしまいました。 というのも、キットの出来は見栄え的に素晴らしいのですが、羊毛皮の半外套の再現度が低いのです。全体的に丈が短いですし、縫い目やスリットポケット、ボタンの位置がいい加減で、修正するとなると、結構な手間がかかってしまいます。それにフェルト製防寒長靴にするとなると、出来の良い長靴を埋めるだけではなく、丈が長くなる分、ズボンも改修しなければ成りません。いやはや。 |
塗装はいつも通り、シタデルカラー、ヴァレホカラー、タミヤアクリルを用いています。 今回多用したのがタミヤアクリルで、隠蔽力もさる事ながら、ガサガサとした艶消しに仕上がるので重宝しました。AFVなんかでは粉っぽくて使い辛いと感じたタミヤアクリルが、フィギュア塗装で効果的であったと、個人的に再評価しております。 あ、もちろんアクリル溶剤なんかは使っておりません。基本は水で、艶を出したい時や伸びを良くしたい時に、時折ペンチングソルベントを使っています。 その他、同系色の中で質感の差を出す為に、炭酸マグネシュウムやシッカロールを、適時混入しています。 今回、同系色の中で質感の違いを再現するという事に、非常に悩みました。余り気にしなくて良いAFVは楽ですね。 ベースは踏み固められた粉雪を表現したく、試行錯誤した結果、ねりっこ・シッカロール・スノーフロック(ゲームズワークショップ社製。白い繊維を細かく切った物)を、水・ペンチングソルベントで溶き、リキテックスのマッドメディウムと白を混ぜ込んだ物を、石粉粘土のベースに塗布しました。 塗布した時と一日経った時、それと一週間くらい経った時とでは、質感が変わってくるので難しいですね。 |