東トルキスタン共和国民族軍についての備忘録



東トルキスタン

東トルキスタン共和国

東トルキスタン共和国軍−民族軍−

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東トルキスタン(新彊)

 「トルコ系民族の土地」という意味であるトルキスタンは、おおよそユーラシア大陸中央部、現在中央アジアと呼ばれる領域を指す。
 この地域はトルコ系民族の他、モンゴル系やペルシャ系など多様な民族の遊牧国家やオアシス都市国家が勃興と衰退を繰り返していたが、近代以降、北西からはロシア帝国が、南西からは清が勢力を拡大し、トルキスタンはロシアと中国という巨大な帝国のせめぎ合う国境地帯と化してしまう。
 以降、ロシア領トルキスタンを西トルキスタン(現在の中央アジア諸国)、中国領トルキスタンを東トルキスタン(現在の新彊ウイグル自治区)と呼ぶ様になる。

 東トルキスタン(新彊)は定住トルコ系民族のウイグル人が最大民族で(1949年で人口の76%、現在は約45.2%)、積極的な入植制作を進めた結果、漢人化が進んでいる(1949年で6.7%、現在40.6%)。その他の民族として、トルコ系民族(遊牧系:カザフ人、キルギス人。定住系:ウズベク人、タタール人)、モンゴル人、タジク人、ロシア人、回族などの少数民族が住んでいる。
 地理的には中央を天山山脈が東西に走り、その北側は草原地帯のカシュガル盆地、南側は砂漠地帯のタリム盆地(タクラマカン砂漠)。
 いわゆるシルクロードで、中国本土と欧州・中央アジアを結ぶ回廊であると同時に、石油やタングステンといった地下資源を埋蔵する戦略の要地である。

 中国が東トルキスタンを領土としたのは18世紀のモンゴル系遊牧国家ジュンガル攻略以来で、中国は東トルキスタンを新彊(新しい領土)として統治する。他方、ロシア(後にはソ連)は、この東トルキスタンに対して、直接的あるいは間接的に侵入を繰り返す事になる。
 東トルキスタンは、中国にとっては「辺境の領土」であり、ロシアにとっては「裏庭の勢力範囲」で有り続けたのである。


 東トルキスタン(新彊)に関しては下記サイトもある。
 「新彊研究サイト」http://www.kashghar.org/
 

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東トルキスタン共和国
(1944−1946/1949)

 第二次世界大戦末期の1944年11月7日。中華民国新彊省の北部、ソ連カザフスタン共和国と国境を接するイリ行政区の区庁所在地クルジャ(グルジャ)にて、ソ連の軍事顧問に指導されたトルコ系民族ゲリラグループによる一斉武装蜂起が行われた。
 12日には新彊に影響力のあるウズベク人のウラマー(回教の宗教指導者)であるイリハン・トレを主席とする「東トルキスタン共和国」の樹立が宣言される。

 1945年1月には各地で個別に活動していた反政府ゲリラグループを共和国正規軍へと統合する決定がなされ、4月8日に民族軍が建軍される。
 同年3月までにはイリ区をほぼ制圧した民族軍は、7月には「三線作戦」を開始しする。これはクルジャから三方向(北部・中部・南部)へ進軍し、新彊全域の解放を目指した作戦であった。7月中には北東隣のタルバハタイ(タルバガタイ)区を、9月には更に隣のアルタイ区を解放して共和国に編入させ、その地区の武装グループを民族軍へと統合した。

 凡トルコ民族主義、イスラム主義、反漢民族を唱え、新彊全域を解放するハズであった東トルキスタン共和国軍であったが、省都ウルムチを目前に突如進撃を停止。1946年6月6日には、国民党政府と和平結び、28日を最後に共和国政府を解体し、新彊連合政府に加わった。

 この180°の方針転換は、影に日向にと援助をしてきたソ連の外交政策の変更によるものである。
 そして調印と同時にイリハン・トレ主席をソ連へ追放、エホメッドジャン・カスミ(アフメトジャン。ソ連育ちのウイグル人)、アブドキリム・アバソフ(クルジャのウイグル知識人グループ指導者)ら親ソ・ウイグル知識人を中心とした指導部を設立後、ソ連顧問団も全て引き上げたのであった。

 しかし新彊連合政府も長く続かず、1947年5月に崩壊し、8月には旧東トルキスタン共和国の三区にて「三区経済委員会」が設立され、実質的に共和国が再建される。


 1949年8月25日。中国共産党が呼びかけた「新政治協商会議」へ参加すべく、共和国と民族軍の指導者達は、ソ連の飛行機で北京へ向かう途中、消息を絶った。
 翌9月15日、新しい指導者のサイフジン・エゼズ(サイプディン・エズィズィ。ソ連に留学経験のあるクルジャのウイグル知識人。1955年に中華人民共和国新彊ウイグル自治区初代主席に就任。その後も共産党中央委員など要職を歴任)は、北京にて共産党へ服従を表明。
 同月25日、中華民国政府新彊省長ブルハン(包爾漢。ソ連タタールスタン共和国生まれのウイグル人)は、国民党政府から離反し、人民解放軍第1野戦軍が新彊に無血入城。
 12月には人民解放軍が三区に進駐。共和国は完全に解体され、民族軍は人民解放軍野戦第5軍として改編(解体吸収)される。

 現在中国では、この東トルキスタン共和国の運動を、国民党と戦った革命運動の一環として「三区革命」と呼ぶ。しかしその実体は新彊のトルコ系ムスリム民族による反漢独立運動であった。
 そしてまた行政から軍にいたるまで、全てのレベルでソ連顧問団の指導を受けていた点に、この革命運動の別の側面を見る事が出来る。



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東トルキスタン共和国軍−民族軍−
(1945-1949)

 東トルキスタン共和国樹立以後、東トルキスタン共和国パルチザン軍総司令部が設立され、総司令官にはソ連軍人アレクサンドル、軍事総顧問には同じくコズロフが就任した。イリ区各地の武装グループには、ソ連の軍事顧問が派遣されていた。
 翌45年1月12日、各地のグループは共和国正規軍に編入される事が決定され、同日に共和国軍事省が設立。同年4月8日、東トルキスタン共和国軍(民族軍)が建軍される。



 民族軍の指導部は以下の通り。
 最高司令官(元帥):
  イリハン・トレ主席
 総司令官:
  パリノフ中将(ソ連軍人。1944年1月27日以降、アレクサンドルの後任)
 副司令官:
  イスハクベグ・ムノノフ少将(10月14付で中将。新彊南部のキルギス人)
  ズノン・タヨフ中佐(祖農太也夫 。ソ連国籍を持つクルジャのタタール人。 後に人民解放軍新彊軍区副参謀長。1955年に少将)
  デレリカン・スグルバヨフ少将(アルタイ区の軍事総指揮官。アルタイ区解放以後就任か?カザフ人)
 参謀長:
  マスコリョフ(クルジャの白系ロシア人)
 政治主任:
  アブドキリム・アバソフ



 兵力はトルコ系民族7個連隊、非トルコ系民族2個大隊1個中隊、その他2個大隊。総員1万2千人〜1万5千人。
 トルコ系民族の連隊は出身地ごとに編成され、非トルコ系民族の部隊は民族ごとに編成されて司令部直轄部隊とされた。

・綏定(クルジャ?)第1歩兵連隊
・クルジャ(イリ?)第2歩兵連隊
・クルジャ(イリ?)第4予備歩兵連隊
・テキス第1騎兵連隊
・テキル第2騎兵連隊
・二台第3騎兵連隊
・トクズタラ第4騎兵連隊

・回族独立騎兵大隊
・モンゴル独立騎兵大隊
・シホ人独立(騎兵)連隊

・迫撃砲独立大隊
・警備独立大隊


(民族軍創設以降に加わった部隊)

・イスハクベグ騎兵旅団(1944年11月16日にイリ区に入った事に成っている)
 (隊長イスハクベグ少将。兵員3千人の新彊南部のキルギス人部隊という事に成っていたが、実体はソ連中央アジア人であった。北部・中部戦線の主力)

・タルバハタイ帰化軍(1945年7月?)
 (パリノフ中将が指揮するタルバハタイ地区の中国に帰化した白系ロシア人部隊とされたが、実体はソ連軍であった様だ)

・アルタイ騎兵連隊(1945年9月?)
 (隊長:デレリカン・スグルバヨフ少将。アルタイ区のカザフ人部隊)

・軍官学校(1945年7月、クルジャに開校)


 連隊長・大隊長は全てソ連軍人で、各中隊までソ連軍人の副隊長が付いていたという。ソ連軍式の軍隊で政治将校が付くと同時に、ウラマーの副連隊長が付くという特徴も有った。



 兵科は四種だが、資料によって若干の差異がある。
 『中国百年軍服』では「歩兵・騎兵・砲兵・軍警」であるが、『東トルキスタン共和国研究』掲載の資料によれば「陸軍・騎兵隊・砲兵部隊・工兵部隊」とある。

 階級も資料によって若干の差異がある。
 『中国百年軍服』では
 「大将・上将・中将・少将/上校・中校・少校/大尉・中尉・少尉/准尉/上士・中士・下士/上等兵・列兵」
 『東トルキスタン共和国研究』では
 「中将・少将・高級参謀・初級参謀/大佐・中佐・少佐/大尉・中尉・少尉/准尉/上士官・下士官・上等兵」。
 名称は違うが、後者の資料では下士官の階級が一つ少ないのと、一般兵士が抜けていると考えれば、ほぼ一致する。


 総じてソ連軍の全面的な支援を受けたソ連式の軍隊で、兵員から戦車、爆撃機にいたるまで民族軍に偽装したソ連軍の支援を受けた。
 軍服も1943年型のソ連式で、共和国内で服や靴を作る努力もされた様だが、帽章までもがソ連で作られていた。



 1946年6月、新彊省政府と和平が調印されると、ソ連顧問団が帰国。総司令官パリノフ中将も民族軍を去り、後任はイスハクベグ・ムノノフ中将。7月1日には6個連隊13500人の新彊省連合政府地方部隊へと改編される。
 連合政府崩壊後の動向は管見では不明瞭だが、総司令官イスハクベグ・ムノノフ中将は1949年8月25日に、他の共和国指導者や、スグルバヨフ少将と共に、北京に向かって機上の人と成ったまま消息を絶つ。1949年12月の人民解放軍の進駐に合わせて、民族軍は人民解放軍野戦第5軍に改編され吸収された。


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主要参考資料

 王柯『東トルキスタン共和国研究』(東京大学出版会 1995)
 『中国百年軍服』(金城出版社 2005)
 『中央ユーラシアを知る事典』(平凡社 2005)


 その他、ネットによる検索や、同志よりの情報提供が大いに参考に成った。感謝します。
 東トルキスタンに関する近代史を簡単に読みたい方は、下記のサイトが参考になるかと。
 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/syometsu/higatoru.html



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