1970年代、ソ連兵士の姿が大きく変化した。 帝政ロシア時代の流れを汲んだデザインであった古式ゆかしいプルオーバータイプの軍服は姿を消した。核戦争時代に相応しい、新たな設計の服が導入されたのだ。 この1969年に制定され、'70年に施行された新たな服装規定は、'73年と'88年に小規模の改訂が行われつつも、ソ連崩壊まで軍人達の姿を規定した。 更には、ここで導入された制服の多くは、崩壊後の独立諸共和国軍でも用いられ続けた。 ここでは作例を用いながら、1970年から1991年までのソ連陸軍兵士にとって最も日常的な装いであった「兵下士官用夏季常勤軍装」と、その移り変わりを示していきたい。 なお、ここでは一般的な兵科の徴集兵用軍装について述べ、特殊な装いをする空挺兵や、暑い気候地域で着用する熱地服などについては述べない。また士官候補生の肩章システムは、一般の徴集兵とは異なる為、ここでは触れない。 |
(写真と文章/赤いお母さん) |
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ソ連軍人の様相を一変させる大規模な服装規定の改定が、1969年に制定され、1970年に施行された。 この新たな規定において陸軍の軍装は、階級等によって「元帥・将官/将校/女性軍人/兵下士官/軍建設部隊員/幼年学校」に区分され、目的によって「パレード/外出・パレード/常勤/野外/作業」軍装の夏用・冬用が用意された。 更に、ソ連軍服装規定は1969年以降、'73年11月と'88年3月に小規模の改訂が行われ、順次施行されている。 下記に示した作例は、左から1969年/'73年/'88年規定に基づく「兵下士官用夏季常勤軍装」を身に着けた、陸軍砲兵科伍長を再現した物である。 |
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因みに、服装規定上の階級区分「兵下士官」とは、正確には「ソ連陸軍兵役期間内の兵下士官と軍学校の生徒(Форма одежды сержантов, солдат срочной службы и курсантов военных училищ Советской Армии)」と表記され、2年間の兵役期間を務めている徴集兵と、3から5年制の士官候補生の兵下士官を指す。 ソ連の男子は兵役義務を有し、18歳になると春と秋の年2回ある召集で兵役に就き、各軍事組織に配属される。その後、部隊に配属されて兵卒となるか、6ヶ月の課程を経てから配属されて下士官となる。この様に、ソ連軍の兵下士官は徴集兵と士官候補生、有事の際は動員された予備役兵を加えて構成される。 なお、兵役期間を過ぎて部隊に残った兵下士官は、有期契約の長期勤務兵として、服装規定上の区分は「将校」となる。 そして、「常勤軍装」とは、日常の任務や兵営での日課、自由時間を過ごす際に着用する様式であり、軍人達の最も身近な普段着と言える。 この「夏季」軍装に防寒具を加えた姿が、「冬季」軍装となる。 |
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「兵下士官用夏季常勤軍装」の典型例は作例で示した通りだが、1969年/'73年/'88年規定の差違は、上記の画像に現れた通りである。 即ち、帽子・肩章・襟章の着用方法の違いに尽きる。 では、各規定をそれぞれ見ていこう。 |
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・1969年服装規定 |
制定:1969年7月26日 ソ連邦国防大臣命令第191号 施行:1970年1月1日 |
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・兵下士官常勤軍装 色鉢巻付き保護色のパレード・外出制帽(парадно-выходная фуражка защитного цвета с цветным околышем) / 保護色の閉襟キーチェリと乗馬型ズボン(закрытый китель и брюки ащитного цвета в сапоги) / 長靴 (сапоги) / 腰ベルト(поясной ремень) |
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・1969年型パレード・外出制帽 常勤用の帽子として、兵下士官と士官候補生は制帽を用いた。 1969年型の制帽は既存のデザインを踏襲しつつ、天井(トップクラウン)部分が大きくなり、ジガミ(サイドクラウン)の正面が5mm高くなる事で、帽体(クラウン)全体が拡大し、1969年型花冠付赤星型の帽章を付けた。 帽体は保護色で、目庇(バイザー)と顎紐は黒、耳章(顎紐留のボタン)は金色の小さな制服ボタンが付けられた。パイピングと鉢巻は兵科色が用いられたが、兵科色が黒の部隊はパイピングのみ赤が用いられた。 なお、野外軍装では被り物として、ピロートカ(後述)を用いる事になっていた。1969年規定に於ける「常勤」「野外」軍装の差違は、その点のみである。 参考までに、ピロートカは右側に少し傾けて、下端(先端)が右耳上端の高さになるように被ると規定された。 ・1969年型兵下士官用常勤・野外服 詰襟ジャケット(キーチェリ)と乗馬型ズボンの上下からなる野外軍装と兼用の新型制服の詳細に付いては後述する。 なお、ここでは旧型の生地を用いた製品を再現した。 ・1969年式常勤・野外襟章(為 キーチェリ) 台座は 65mmx28mm の平方四辺形で、兵科色の綿フランネル製の物を、服に備え付けられた共生地の襟章台座の上に縫い止めた。 台座の後端から10mmの位置に、金メッキされたアルミ製兵科章を打ち付けた。 全軍演習や有事の際はこの襟章を剥ぎ取り、下の共生地の襟章台座に保護色の鉄製兵科章を打ち込む事になっていた。 ・1969年式常勤・野外肩章(為 キーチェリ) 台座は横幅60mm、長さは3種類(150mm/160mm/170mm)の台形で、兵科色の綿フランネル製の物を、服に備え付けられた共生地の肩章台座の上に縫い止めた。 階級章は黄色いリボン(幅10mmと30mm)で、肩口から70mmの位置に一本目が来るように、台座に対して横方向(曹長:старшинаのみ縦方向)に縫い付けられ、二本目以降は2mmの間隔を開けて襟方向へと加えられた。 全軍演習や有事の際はこの肩章を剥ぎ取り、下の共生地の肩章台座に赤い階級リボンを縫い付ける事になっていた。 作例では幅10mmのリボンを一本付けて、伍長である事を示している。 ・胸章:コムソモール章 '69年型常勤・野外服の胸に徽章類を佩用する際は、右胸に資格章類を、左胸に略綬やピオネール系の徽章を付けた。 徽章の取り付け位置は第2ボタンの高さで、徽章の間隔は左右5mm、2列以上になる場合は上下15-20mmを開けて佩用した。 なお、この作例では全連邦レーニン共産主義青年同盟(コムソモール)の会員章を佩用している。規定上は佩用位置が高すぎる。 ・腰ベルト 兵下士官用の常勤・野外服の腰ベルトは、既存の物が継続して使用された。 真鍮製バックルにはフックが溶接され、鎚鎌の入った星がプレス加工された。茶色の人造皮革を用いたベルトの反対側には、真鍮製のフックの受けが取り付けられた。 なお、兵士達は軍用商店で天然皮革製のベルトに買い換えていた。 因みに有事に際しては、保護色に塗装された鉄製バックルと、帆布に焦げ茶色の樹脂を塗布した腰ベルトに交換する事になっていた。 ・長靴 既存の黒革製長靴で、胴の部分が人工皮革キルザで作られていた為、キルザチー(кирзачи / 単数形はキルザーチ:кирзач)と呼ばれた。 |
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・1973年服装規定 |
制定:1973年11月1日 ソ連邦国防大臣命令第250号 施行:1974年1月1日 |
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・兵下士官常勤軍装 保護色のピロートカ (пилотка защитного цвета)/ 保護色の閉襟キーチェリと乗馬型ズボン / 長靴 / 腰ベルト 、 |
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・木綿製ピロートカ 1973年規定の常勤軍装において、兵下士官は制帽ではなく、伝統的な舟形略帽であるピロートカを着用する事になった。一方で、士官候補生の兵下士官は引き続き、制帽を常勤軍装で用いた。 なお、指揮官の判断で、兵下士官がピロートカの代わりに制帽を、士官候補生が制帽の代わりにピロートカを被る事も許された。 ピロートカは木綿生地の制服には木綿生地製の、ウール生地の制服にはウール生地の製品が支給された。 ここでは基本的な木綿生地である「3303」の製品を再現した。 ピロートカの正面には略帽用の小さな星型帽章が取り付けられた。 ピロートカは少し右に傾けて、下端(先端)が眉毛の上、指2、3本の位置に来るように被ると規定された。 作例ではアミダに被っているが、これは明確な規定違反である。実際には、兵士達は思い思いのスタイルで着用し、中にはピロートカを改造する例も多く見られた。 ・1969年型兵下士官用常勤・野外服 キーチェリと乗馬型ズボンの組み合わせである常勤・野外服の詳細については後述する。 ここでは基本的な木綿生地である「3303」の製品を再現した。 ・1973年式常勤・野外襟章(為 キーチェリ) 1969年式と変更無し。 ・1973年式常勤・野外肩章(為 キーチェリ) 基本的には1969年式と変わらないが、一つ大きな変更が加わった。 共生地の肩章の上に縫い付ける兵科色の台座に、ソ連陸軍(Советская армия)の頭文字である「СА」が、金色(実際は黄色)のポリ塩化ビニルでプリントされる様になる。 文字の大きさは高さ25mm、文字の下端と肩章の端からの距離は25mmであった。 この変更は、元々パレード・外出服などの肩章には金属製の文字が打ち込まれていたが、これを常勤・野外服用にも適用しようという事であった。 これは国防大臣アンドレイ・グレチコ(Андрей Гречко)元帥の肝いりで、本来であれば1973年から'74年にかけて変更が行われるハズが、わざわざ'73年のうちに実行に移すようにと命令を加えている。 ここで大きな問題が生じた。それは台座の中央、縦方向に30mmの階級リボンを縫い付ける曹長(スタルシナー)の肩章では、台座にプリントされた文字が隠れてしまうのだ。そこで文字のプリントされていない台座を引き続き用い、縫い付けたリボンの上から金属製の文字を打ち込む、或いはプリントされた文字を削ってしまい、リボンの上に貼り付ける等といった創意工夫が求められる有様となった。 ただ、実際にどれだけ規定が厳守されたかは怪しい。 ・胸章:コムソモール章 胸の徽章類の佩用方法には変更無し。 ・腰ベルト 変更無し。 因みに、1969年規定では有事の際に用いる保護色のバックルと帆布に焦げ茶色の樹脂を塗布した腰ベルトが、'73年規定では野外軍装に於いても用いられる事となった。これによって、「常勤」と「野外」の軍装でベルトに違いが生じた。 補足ながら、金属部に保護色が塗装された装具が生産支給されるのは'70年代も後半になってからの様で、実際は金具部分にニッケルメッキの施された旧規格の装具が使用され続けていた。 ・長靴 変更無し。 |
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・1988年服装規定 |
制定:1988年3月4日 ソ連邦国防大臣命令第250号 施行: |
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・兵下士官常勤軍装 保護色のピロトカ / 保護色の閉襟キーチェリと乗馬型ズボン / 長靴 / 茶色の腰ベルト(ремень поясной коричневого цвета) 服装規定に関わる大きな変化が、1980年代前半に現れた事を記しておく。 1985年、全兵科共通(除く空挺兵)軍装として、アフガーンカ(афганка)と呼ばれる新型軍服(夏用は1982年型、冬用は1984年型)とその帽子が制定され、'69年型常勤・野外服と順次入れ替えられていった。 1988年服装規定では、このアフガーンカと帽子が「野外軍装」として制定されたが、既存の'69年型常勤・野外服とピロートカの使用も継続されており、規定上でも野外軍装として残された。 また、この'88年の規定では、「野外」軍装を「常勤」軍装として用いる事も許された。これはアフガーンカとその帽子を、常勤軍装として着用する事を想定したのだろう。 |
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・木綿製ピロートカ 被り物に関しては、1973年規定と変更無し。 ピロートカは右側に少し傾けて、下端(先端)が眉毛の上、2から4cmの高さになるように被ると規定された。 ここでも基本的な木綿生地である「3303」の製品を再現した。 なお、前述したようにアフガーンカ用の帽子の着用も想定される。 ・1969年型兵下士官用常勤・野外服 キーチェリと乗馬型ズボンの組み合わせである常勤・野外服の詳細については後述する。 ここでも基本的な木綿生地である「3303」の製品を再現した。 なお、前述したようにアフガーンカの着用も想定される。 ・1988年式常勤・野外襟章(為 木綿製キーチェリ) 木綿製キーチェリに、兵科色の台座と金色の兵科章の着用が廃止された(除く士官候補生)。 全軍演習や有事の際に用いていた方式、即ち既存の共生地の襟章台座に、保護色の兵科章を打ち込む事となった。 兵科章を打ち込む位置は、台座の後端から10mmというのは変わらない。 ・1988年式常勤・野外肩章(為 木綿製キーチェリ) 木綿製キーチェリに、兵科色の台座と黄色の階級リボンの着用が廃止された(除く士官候補生)。 全軍演習や有事の際に用いていた方法、即ち既存の共生地の肩章台座に、赤い階級リボンを縫い付ける事となった。 階級リボンの取り付け位置にも変化が在り、肩口から55mmの位置に一本目が来るように、台座に対して横方向(曹長のみ縦方向)に縫い付けられ、二本目以降は2mmの間隔を開けて襟方向へと加えられた。 補足ながら、外套やウール製キーチェリには引き続き兵科色の肩章が縫い付けられたが、規定上、曹長の肩章から「СА」の文字が消えた。 ・胸章:コムソモール章 胸の徽章類の佩用方法には変更無し。 ・茶色の腰ベルト 変更無し。 規定上、ベルトの名称に「茶色の」が加えられた。 パレード用の「白い腰ベルト」と区別している様だが、別物である野外用の腰ベルトも「茶色の~」となっているのは不可解だ。 ・長靴 変更無し |
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・1969年型木綿製兵下士官用常勤・野外服 |
1970年以降のソ連兵士の姿を大きく変えた要因の一つが、1969年型「パレード・外出服」と「常勤・野外服」の導入である。 背広型で、閲兵式を初めとする式典、外出時などの言わば余所行きの服であるパレード・外出服に対して、常勤・野外服は「常勤軍装」と、屋外教練、演習、有事の際の「野外軍装」と、共用で用いられた身近で実務的な制服である。 上着(キーチェリ)は閉襟(詰め襟)で折り襟、シングルボタン式の前開きで、前身頃は金色の制服ボタン5つ、襟元は金属製ホックとループで留められた。左右の腰にタレ蓋付きスリットポケットが、左胸の内側にもフタ無しでボタン留めの貼り付けポケット(戦闘時には個人用薬箱を入れた)が設けられた。袖は小さい金色の制服ボタン二つで留められるカフスが付いていた。 襟と肩には、共生地で作られ芯の入った襟章と肩章の土台が縫い付けられていた。なお、国内軍や国境警備隊向けの上着には、この共生地の襟章と肩章の土台は付けられていない。 襟から1-2mm見える様に、襟首に白い布で襟布が縫い付けられた。 なお、気温が高い時には指揮官の命令の下、襟とカフスのボタンを外す事が許されており、'88年規定では更に、肘関節から2から4cmの高さに袖をまくり上げる事が許された。 また腰ベルトは、バックルが第4ボタンと第5ボタンの間に来る事とされ、指揮官の許可があれば外す事も出来た。 ズボンは膝下がすぼまった乗馬型で、長靴と合わせて用いられた。 ズボンの前開きは金属板製のホックとボタンで留められ、左右の腰にボタン留め式サイズ調整小ベルトが付いていた。ベルトループにズボン用ベルトを通して着用されたが、多くの兵士がサスペンダーを用いる事を好んだという。 膝には五角形の当て布が、裾には片側ボタン留め式の平打ち紐製足掛けが付いていたが、多くの兵士が邪魔なので切り取っていたらしい。 左右の腰にスリットポケットが付き、右前部分にも小さなスリットポケットがあり、ここには個人用浄水剤を入れる事が規定されていた。 |
・ソ連軍服用木綿生地 ソ連邦軽工業省とソ連邦閣僚会議国家計画委員会(ゴスプラン)は協同で、軍服に用いる生地の品質向上を1970年から'72年の間に行う事を決定した。 ここで開発された木綿生地が、その後、ソ連軍の基本的な木綿生地となる「3303」である。 この「3303」が供給される以前に製造された1969年型の木綿製品には、既存の木綿生地が使用されていた。 1969年型兵下士官用常勤・野外服には、旧型の常勤・野外服と同じ生地が使われた。キーチェリにはプルオーバー型上衣である1943年型ギムナスチョールカ(гимнастёрка)に用いていた畝織り生地が使われ、ズボンには後に「3305」と呼ばれるトリコット織り生地が用いられた。 また多くの設備変更を必要とした「3303」の安定供給までには時間が必要であり、その間の代用品として既存設備を用いたポリエステル系混紡生地(木綿35%、ダクロン65%)「3217」が開発された。 この生地は艶があり、薄くて軽く、洗濯もしやすいと評価が高く、結局「3303」と併用する形で(少なくとも1980年代まで)生産が続けられた。 |
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模型的解説については、Blog「別当日誌」の記事を参照して下さい。 |
キットレビュー / 制作記録: 作品展示: |