東トルキスタン共和国軍【新彊民族軍】の将官


 第二次世界大戦末期の1944年、ソ連の援助を受けて、中国新彊省北部のイリ区クルジャにて東トルキスタン共和国が樹立される。1945年4月8日には、各地域のゲリラグループを統合、東トルキスタン共和国軍として民族軍が建軍された。
 その後、東トルキスタン共和国政府は、イリ・タルバハタイ・アルタイの3行政区を解放・統治するが、1949年に中華人民共和国に合流して消滅し、民族軍も人民解放軍野戦第五軍として編入される。
(詳しくは「東トルキスタン共和国民族軍についての備忘録」を参照の事)


 今回は民族軍の将官を再現した。
 民族軍の将官は、軍事顧問のソ連人も含めて数名居る様だが、東トルキスタン共和国人の将官を再現する事とした。
 高級軍人の軍服は規格があるものの、個人の趣味が反映されやすく、また違うデザインの服を複数着用している場合もある。今回の再現では、特定の将官の、特定の軍装を再現したわけではなく、標準的な民族軍将官の姿を模型で示してみた。
 また民族軍の軍装に関しては、色彩を初めとして不明な部分が多い。書籍やネットで拾った画像を元に、極力史実に忠実に再現を試みたが、力及ばなかった点も多々あると思う。

(文章/写真:赤いお母さん)

 『中国百年軍服(China Regimental 100-Years)』(金城出版社 2005)に拠れば、民族軍将官は、ソ連から提供された赤軍1943年規定の礼服、常勤服を用いたとある。
 兵下士官・将校などは、ソ連式とも中国式とも言えぬ形状の軍装を用いている姿が見られるが、将官に関しては概ねソ連式の軍装を用いている様である。

 とはいえ、現存する写真資料などを見るに、赤軍の礼装用軍装を用いている姿は見あたらず、常勤用もしくは野外用に相当する軍装を用いている姿が見受けられるだけである。
 礼服を着用すべきセレモニー等に際しても、常勤用と同じ軍装を用いている事を考えると、恐らく赤軍の礼装用軍装は民族軍では用いられなかったのであろう。

デレリカン・スグルバヨフ少将 イスハクベク・ムノノフ少将

・制帽

 『中国百年軍服』によれば、民族軍の将官は、赤軍1943年規定の将官用制帽を身につけている事になる。
 前述した様に、民族軍の将官は礼服を用いなかった様である。と言う事は、写真に写った彼らが被っている制帽は、赤軍1943年式の将官用常勤制帽という事になるハズである。
 ところが、上記写真を見れば分かるとおり、彼らが着用している制帽は、'43年式将官用常勤制帽では無い様だ。というのも顎紐が金モールでは無いからである。

 彼らが被っている物に符合するタイプの将官用制帽としては、一時代前である1940年規定の行軍用制帽が挙げられる。
 また1943年規定であれば、将校用制帽が挙げられる。
 即ち、帽体はカーキ色で、鉢巻とパイピングが兵科色、目庇と顎紐が黒、顎紐の制服ボタンが金色というタイプである。

 ただし、上記のタイプに完全に符合すると見られるのはスグルバヨフ少将の制帽だけである(上記写真参考)。
 他の将星達の制帽は、鉢巻が帽体と共生地のカーキ色の様に見える。
 またもしかすると、顎紐の制服ボタンもカーキ色系かも知れない(そうなると兵下士官用型である)。

 今回はムノノフ少将の上記写真を参考に、同時代の赤軍の制帽等を加味して、再現を試みた。兵科色は、『中国軍服百年』を参考に、歩兵科(一般兵科)の赤とした。
 帽章はどの写真も不鮮明で、詳細は分からなかった為、『中国軍服百年』を参照した。


肩章

 『中国軍服百年』では、将官の肩章を赤軍1943年型と同じデザインで説明しているが、写真を見て頂ければ分かる様に明らかに違っている。
 赤軍1943年型将官用肩章は、兵科色のパイピングと金ボタン、銀色の刺繍による星、台座の色は常勤用が金色、野外用がカーキ色となっているが、民族軍の物は星が金属製の打ち込み型と思われ、土台も波部分と地の色が違っている。

 これも色彩に関しては全く不明であるが、赤軍型肩章やモノクロ写真から推測し、肩章土台の地色をカーキ色、波部分の織りを金色としてみた。ボタンは金色、星は銀色、パイピングは赤とした。


・制服

 赤軍1943年式将官用常勤服を着用しているという設定にした。

 1943年規定では、常勤用のズボンは兵科色のランパース(лампас)の付いた濃紺色の物が、野外用は兵科色のパイピングの付いたカーキ色の物が規定されているが、常勤用にランパースの付いたカーキ色の物が着用されている例を散見する。
 写真で見る限り、民族軍の将官は、ランパースが付いたカーキ色のズボンを着用している様である。

 尚、ランパースの寸法は、将官用1940年型ズボンの規定によると、左右の帯幅は20mm、パイピング幅は2.5mm、帯とパイピングの隙間は5mm、帯には両脇に端から1.5mmの位置に縫い目がある。

 



模型的解説

 元々、椅子に座った記念撮影風のビネットを作ってみたかったので、椅子に座ったポーズのフィギュアは常々チェックしていたが、定評のあるミニアート社から、バンタム40BRCに付属するフィギュアセットが発表されて以来、発売を心待ちにしていた。
 その出来は期待を裏切らない素晴らしい物であった。

 早速、以前より暖めていた企画を実現に移すべく、赤軍高級将校のフィギュアを東トルキスタン民族軍の将官へと改造した。
 暖めていた割には見切り発車で(作りたい!という勢いも大切なんです)、リサーチ不足が製作中に露呈するのは、常の如し。


 常の如しで、素晴らしいが不要なモールドを削り、必要なモールドを彫り込んだり、エポキシパテで作り込む。
 ボタンはビーディングツールで打ち抜いたプラペーパー、バイピングは伸ばしランナーで作り直した。
 そうそう、プラ棒で手に持った煙草を追加した。
 肩章は、波形の織りをプラペーパーの細切りで作り(当初は塗りだけで表現するつもりだったが無理であった)、ボタンをビーディングツールで打ち抜いたプラペーパー、星をエポキシパテ(ここではマジックスカルプ)で再現した。
 当初はズボンはパイピングだけのつもりであったが、資料写真を見ると、どう贔屓目で見てもランパースを縫い付けている様に見えたので、仕方なしに追加工作をした。

 中央のパイピングは伸ばしランナー、左右の帯はマスキングテープの細切り。
 マスキングテープは、上から溶きパテでコーティングした。


 このフィギュアはバンタム40BRCに付属するキットで、完全な1/35スケールとなっている(それでもバンタムには納まらないらしいんですけどね)。
 幸か不幸か、その結果、利用する予定だったTANK社のアジア人ヘッドが、ボディに対して大きすぎて、使えない事が判明した。よって純正ヘッドを改造して、東トルキスタン人に相応の顔としなければ成らなかった。
 もともと大変出来の良いヘッドであったので、整形手術をするのは忍びなかったのだが、ここは大儀の為、致し方ない。

 スラブ系(と思われる)ヘッドを、中央アジアのトルコ系ヘッドに改造する事を目指した。
 簡単にトルコ系と言っても様々な顔立ちがあるが、モンゴル系の血が強く混じったトルコ系とする事とした。具体的なモデルは、スグルバヨフ少将(カザフ人)。

 作業としては、目の回り、特に眉弓(びきゅう)を削り、上瞼と額との段差をなだらかにした。眉毛と目との間隔も広くし、眉毛の根本と目頭を離した。
 更には上瞼をいじり、肉厚で、目頭に蒙古襞(もうこへき)がある形状とした。
 鼻筋も額との段差をなだらかにしてみた。
 ついでに溶きパテで、髯を生やしてみる・・・良いねぇ・・・男前(自画自賛)。

 当初はスグルバヨフ少将(カザフ人)をイメージして作っていたが、なんだかムノノフ少将(キルギス人)っぽくなってしまった・・・まぁ良いか。


 因みに帽子も、パイピングを伸ばしランナーで、顎紐をプラペーパーで、帽章と顎紐のボタンをビーディングツールで打ち抜いたプラペーパーで、ディテールアップしてある。

 イスはヒストレックスのキットを使用した。
 このフィギュアは車に搭乗させる為に、座った位置が低く成っている。いくつかイスのキットに座らせてみたが、どれも足を切りつめてやる必要があった。

 机はTRPG用のメタルフィギュアを出していた(今もあるのかな?)西ドイツ・ホビープロダクツ社製のメタルキット。

 テーブルクロスは、パテで目留めをしたティッシュぺーバーで作った。

 茶碗は、プラ棒からの削りだし。リューターにかませて、ろくろの要領で削った。
 中のチャイは、エポキシ接着剤に塗料を混ぜて作った。
 茶碗の図柄は、ウイグルの生活を紹介したサイトを眺めながら、それっぽく描き込んでみた。

 絨毯はボール紙を使って自作。
 図案は、杉山徳太郎『維吾爾(ウイグル)絨毯文様考』(源流社)や各種画像を参考にし、1940年代に使用されていたであろう東トルキスタン製絨毯をイメージしながら、塗装してみた。
 フィールド中心にペルシャ風のメダリオンを配し、四隅にウイグル独特の雲彩頭文様を、周りを囲むボーダーには雲文様を描いてみた。ユーラシア東西の折衷的なウイグル絨毯の雰囲気が表現できていれば喜ばしいのだが・・・。


 塗装はいつも通り、水性アクリルカラー各種(ヴァレホカラー、シタデルカラー、タミヤアクリル)を使用。

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